び びーち ストイックな恋愛模様が儚くも美しい
starstarstarstarstar - 4年前
伴侶とすれ違いの生活を送る男女が同じ日にアパートに引っ越してくる。やがてお互いの連れ合い同士が不倫していることに気付き、二人は親密になる。密会を重ねるが、体を重ねることはない。女は「一線は守りたい」と言い、男は「不倫はしない」とも語る。大人… 続きを読む
伴侶とすれ違いの生活を送る男女が同じ日にアパートに引っ越してくる。やがてお互いの連れ合い同士が不倫していることに気付き、二人は親密になる。密会を重ねるが、体を重ねることはない。女は「一線は守りたい」と言い、男は「不倫はしない」とも語る。大人同士でありながら、純愛を貫いたが故に当然成就しない恋愛。甘美な思い出となるだけだ。だが最後の夜、女の「帰りたくない」という言葉で、二人は一緒に朝を迎えることになる。ウォン・カーウァイの抑制の利いた演出と、クリストファー・ドイルによる恰も鍵穴から覗き込んだような映像が素晴らしい。
l lili 花様年華
starstarstarstarstar - 2年前
もう一度見たい、そう思った。結末はどんな解釈もできる。二人は結ばれたのか結ばれなかったのか、結実したのかしなかったのか。愛の思い出だけは残り香のように…。
1960年代香港の襟の高いチャイナドレスの美しさは特筆に値する。
e enzo 感情が複雑な問題
starstarstarstarstar - 3年前
オールナイトの最後作品 疲れ過ぎてもすごく良かった作品と思う
h haru
香港にはない
starstarstarstarstar - 3年前
ウォン・カーウァイ『花様年華』を観た。空がなかったのがこの映画の一番良かったところで、終盤カンボジアに行ったところでようやく空が映ったけど、この映画で一番良かったところは、よかったのは空が映らないところだ。風景や空による画面の解放感ってのが… 続きを読む
ウォン・カーウァイ『花様年華』を観た。空がなかったのがこの映画の一番良かったところで、終盤カンボジアに行ったところでようやく空が映ったけど、この映画で一番良かったところは、よかったのは空が映らないところだ。風景や空による画面の解放感ってのが、そういう画的な解放感ってのがないのがなかったのがこの映画のいいところだった。と思った。それ以前にこの映画はアップを多用していて、それが圧迫感をすごく強めていて、というかなんか圧迫感がすごくあるなと出だしから思っていて、それはアップの多用、基本的にとまではいかないけどアップはものすごく多用されていて、人物は切れていたり、部分だけが体の部分だけが映っていたりで、あと印象的でよく使われていたのは扉、ドアの向こうをその廊下から映すショットで、それによって実質的にそのときの画角がそのドアのサイズにスケールダウンしていた。その小さな中だけが映っているもののようだった。とにかく空もなく、アップを終始多用することですごく圧迫感のある映像で、それがすごくよかった。アップの多用に、別に物語の進行を映像に映す必要なんてやっぱないんじゃないか、というかその必要はやっぱ当然ないな、と思った。思わされた。最低限声だけが同期されていれば映像は物語にとってそれだけで機能するな充分だ、と思った。もちろんそもそも物語なんてなくてもいいんだけど。とにかくこの映像の存在感の示し方は参考になった。あとそのアップの多用が何から導かれたのかということだけど、この映画、男の妻と女の夫が登場人物としてはいるんだけど一切出てこない。声だけあるいは姿があっても僅かな後ろ姿だけで、極端なことを言うと、それくらいなら誰でも、誰がやってもいい役のように設定されている。さっきアップの多用と言ったが、アップを序盤から多用することで、この登場しないというか姿を見せないそれぞれの配偶者が登場するシーンで、それらの人物をそのように除いたカットになっていても、実際そうなっているのだが、そうなっていても違和感のないものになっている。つまり存在というか実体的な姿を隠すために急にカットがアップになっていたり、ショットの質が変わったりなどしていないということだ。そういう印象を与えることがないということだ。だって最初からずっとそうやってアップなどを多用して圧迫感のある映像でやってきているのだから。これがもし、もしだけど出演者を金銭的に確保できないとか、あとそうだ出てくる場所もものすごく限定的で同じ場所ばかり何度も出てくるのだが、それも圧迫感を増すのにものすごく与している、そういう人も場所もうまく確保できないからそれ故にこのアップの多用が発明されたのなら、それは創作という意味においてもとても素晴らしいことだと思う。あとはまあ、序盤距離が近づいた二人が初めて食事をするシーンがあるのんだけど、互いの配偶者の好きな食べ物をそこでそれぞれが食べ合うのだけど、男がマスタードか何かを女の皿に盛って、それをつけて肉を食べた女が、奥さんが好きなのね、みたいなセリフを言うのだがそれがあまりにも説明的すぎて、それまではそんな調子のセリフはなかったから、そこだけすごく浮いていた。あと、というかこのシーン自体が正直何かの比喩のようなものに感じられてしまうシーンで、その互いの配偶者の好きな食べ物を食べ合うというこのシーンが、そう、あまりにも何かの比喩や象徴のように機能し出してしまいそうというか、つまり、この映している今ここを指していないような気がしてしまうというか、なのでこのシーンだけはあまりいいなとは思えなくて印象に残っている。飯を食べるシーンなら、「飯を食べる」ことを映してほしい。バクバクと食う口とか、カメラにしかそれは映せないし、それだけでいいのにな、と思うけど、思ったけど、まああんま口とかだけ映すとそれはそれで比喩的に感じられてしまうのか。まああと圧迫感がすごいことの良さはそういえばもう一つあって、アップの多用によってまさにカメラな視覚をたくさん体験できるという当たり前のことだ。カメラにしかない視覚がたくさん楽しめる。これは楽しい。当たり前だけど。空なんて僕にだって見上げることができる。あとスクリーンで観たから圧迫感がなおだったのだと思う。そこも、というかそこは計算していたと思う