☆4.8
主人公のジェーンについて何も語られず、「何も起こらない1日」が淡々と無機質なオフィスで続くことに終始退屈さを覚える人もいるかもしれない。確かに目立つ仕事はない。彼女は殴られるわけでも彼女自身が性的な関係を迫られるわけでもひそひそと噂話を流さ… 続きを読む
主人公のジェーンについて何も語られず、「何も起こらない1日」が淡々と無機質なオフィスで続くことに終始退屈さを覚える人もいるかもしれない。確かに目立つ仕事はない。彼女は殴られるわけでも彼女自身が性的な関係を迫られるわけでもひそひそと噂話を流されるわけでもクビになるわけでも家に全く帰れないわけでもない。 だが、職場でのヒエラルキー最下層の彼女が経験する次から次へと出てくる感謝されない無数の名もなき仕事と、紙で切ったように小さく、しかし確かな差別と無力感という傷を延々と延々と延々と負い続ける姿に、噛めば噛むほど既視感のある苦味とエグ味を感じずにはいられない。 他の人は無地の地味な色のものを使う中、唯一“BIG HUG MAG”と書かれたピンクのマグカップを使うジェーンは、もともと明るくチャーミングな女性なのだろう。しかしそんな彼女の顔はほとんどの場面で死んでいる。それもそのはず、会長のアシスタントとしてオフィスで働く彼女は膨大な雑務をこなす一方で一人の人間として扱われていないからだ。さながらパンフレット裏表紙やフライヤーにいる「のっぺらぼう」のように。 自分が使った皿やコップを洗ってもらえて当然、散らかした食べ残しや部屋は片付けられて当然、エレベーターの乗り降りは自分が先なのが当然、通路は避けてくれて当然。後輩で年下のジェーンに厄介な仕事を押し付ける同僚(まじクソ野郎)、上司に効く謝罪文を手伝い飲みにも誘うが、まじクソ野郎な同僚を諭したり自分が面倒事を引き受けたりするわけでもなく問題をスルーする同僚、必死の告発や深刻な相談を個人の「気のせい」「大げさ」と矮小化し「紙屑のように」握りつぶす人事部。「大丈夫、彼女は彼をうまく利用する」と若い女性が利用の代償を(本人の意思に関係なく)払うことを看過する女性社員。そう、会長だけが問題なのではない。誰もがこの状況を、より文句を言わない/言えない者に、より下の者に負担を押し付ける現状のシステムを消極的に蔓延させた張本人であると同時に被害者だ。 本当にこの1日には「何も起こっていない」のか、「起きていないように見えるだけ」なのか、“What can we do?”と観客に突きつけてくる。 《余談》 ①おそらくジェーンのモデルはハーヴェイ・ワインスタインの専属アシスタントだったサンディープ・リハル。 「彼女はライターがオフィスのなかで以前耳にした言葉、"ハーヴェイのお友だち"の名簿を保管し、女性たちの出入りを管理することが仕事の一部になっていた。リハルは恥辱を感じるあまり、男性重役に自分の最悪な経験を打ち明けられなかった、と後に語っている。彼女はワインスタインにカバージェクトという、直接ペニスに注射する勃起機能不全治療薬を入手し、準備しておかなければならなかった。しかも、自分のデスクにその注射の予備をしまっておき、茶色の紙袋に入れて彼に手渡すのも仕事だった。(中略) ワインスタインは、もしもこの職務のことを他人にばらしたら、大変なことになるぞ、と脅した。彼女の学生ローンと妹が通っている学校のことに触れ、いつでも彼女を追い出すことができる、と言った。 (『その名を暴け(ジョディ・カンター,ミーガン・トゥーイー著,古屋美登里訳,新潮社)』P.186) リハルは間もなくミラマックスを退職してしまうのだが、ジェーンはコピーの合間にシナリオを読み、白旗を挙げろとでも言うように勧められたティッシュを使わず、涙を必死に堪えて溢さず、会長の振る舞いを見逃せない故に食事を飲み込まず、まだ希望と野心を捨て切っていないようにも感じられた。 ②セクシャルハラスメントという言葉もインターネット検索もろくになかった30年以上前ならいざ知らず、パソコンやスマートフォンのある時代の若者が、対処法や証拠の集め方を調べもせず、いきなり人事部に、たとえ独りよがりでも要点も整理せず伝えに行く点は軽率すぎると感じた。また、つい周囲から求められる故に女性がしがちな“愛想笑い”がほとんどない点にもむしろ違和感があった。 ③『SHE SAID』『WOMEN TALKING』『スープとイデオロギー』に続き「2023年(個人的)女性監督傑作選」に登録。 《パンフレット》 まるで海外版マガジンそっくりのA4サイズの中には6頁の文字びっしりで緻密なプロダクションノート、キャッチコピーの“What can we do?”が頭を過ぎりながら無力さに打ちのめされる“we”に勧める「無力にならないためのブックリスト紹介」、そして何よりの魅力は寄稿文。 本作をつまらないと思った人こそ購入推奨。作中に散りばめられた暗喩の数々や根底にある差別、背景の社会問題、同様のテーマを扱った映画の紹介などを、経験と視点の異なる総勢8名の16頁が教えてくれる。 (字幕翻訳:上條葉月)