立場で人は作られる
starstarstarstarstar - 2年前
「飯塚事件」1992年、2人の7歳の少女が残忍に殺され山中に遺棄される。DNA型鑑定などにより犯人とされた久間三千年が1994年逮捕され、死刑判決を受け2008年に死刑執行される。
証拠からは犯人のように思えるが、久間三千年は死刑執行直前ま… 続きを読む
「飯塚事件」1992年、2人の7歳の少女が残忍に殺され山中に遺棄される。DNA型鑑定などにより犯人とされた久間三千年が1994年逮捕され、死刑判決を受け2008年に死刑執行される。
証拠からは犯人のように思えるが、久間三千年は死刑執行直前まで無罪を訴え、再審請求を望んでいた。
この事件に関わった警察官、弁護士、新聞記者、久間三千年の妻、それぞれの証言をフラットに聞いていく様から浮かび上がってくるのは、題名の通り「何が正義なのか?」と言う問い。
実は当時のDNA型鑑定の精度が低かったことや、他の証言や証拠はもしかして警察に誘導されて作られたのでは…?一方でもし仮に犯人だったとしても、死刑早過ぎやしなかったか?など様々に浮かんでくる問い。
ここで大事なのは、犯人以外、このドキュメンタリーに出ている人はほとんど、人を助けようとしている立場の人達なのだ。
「残忍な犯罪をした人は捕まえないとならない」
「このような犯罪があってはならない」
「冤罪だとしたら助けないとならない」
それぞれの立場で、誰かを、社会を、助けたり良くしようとしているのだ。
しかし各々の立場こそが人を作り、見え方を固定させてしまう。
犯罪捜査、裁判制度、事件報道、それぞれのあり方にフラットにスポットを当てていくこのドキュメンタリーは、見た後「あなたはどの立場?」と問うてくるような、見応えのある作品だった。
☆4.3
starstarstarstarstar - 2年前
NHKの「国内番組基準 第1章 放送番組一般の基準・第11項 表現」には、「1 わかりやすい表現を用い、正しいことばの普及につとめる。」とある。この基準から言えば「わかりやすい」作品ではないだろう本作に不満を持つ者もいるかもしれない。
また… 続きを読む
NHKの「国内番組基準 第1章 放送番組一般の基準・第11項 表現」には、「1 わかりやすい表現を用い、正しいことばの普及につとめる。」とある。この基準から言えば「わかりやすい」作品ではないだろう本作に不満を持つ者もいるかもしれない。
または、警察・検察の法的手続きの明らかな問題点と崩れた決定的証拠の疑義を示しつつ、インタビューで糾弾や詰問をしない制作陣の姿勢に不満を持つ者もいるかもしれない。
しかし、関係者それぞれの立場を敢えてそのまま示すこと、断言できないが疑わしいという「わからない」状態を保ち続ける姿勢こそ、制作者であると同時にメディアである作り手の誠実さの表れではないだろうか。
このように考えなさいと強制するまではいかなくとも、無数の可能性を「わかりやすく」交通整理して考える力を予め奪うことや、悪役を設定して鉄槌を下そうと逸る正義こそ危険だと、当時の過熱報道とそれを自ら省みる者、それを映す者の姿が警鐘を鳴らす。
有罪を信じる者も、無罪を信じる者も、半信半疑な者も、証言者も、再調査する者にも、それを取材する者にも、絶対で明確な真実は提示できない。各々がその時々に持った正義に従って動いた結果だけが、積み上がっては揺らぎ、また積み上がっていく。
もし自分が捜査する警察だったら、検察だったら、メディアだったら、証言者だったら、弁護士だったら、正しい判断ができただろうか。できるだろうか。間違えないためにはどうしたら良いだろうか。もし間違ったとしたら、何をすれば良いのだろうか。
そこに「わかりやすい」答えはない。そもそもわかりやすくないし、わかりやすく語ることが重要ではないと思う。
≪余談≫
木寺監督インタビュー
(TBSラジオ『武田砂鉄のプレ金ナイト』砂鉄堂書店5月11日より)
砂鉄:『正義の行方』は映画版と書籍版があります。映像メディア・活字メディアで描き方の違いはありますか。
木寺:飯塚事件を一方的に冤罪だと言うつもりは毛頭なく、その確証も自分にはありません。自分は元警察官や弁護団、そしてスクープを報じた新聞社の3つの集団それぞれが持った異なる真実と正義、三者それぞれの葛藤をぶつけていくように映画を作るという手段を取りました。また、どこかに肩入れせずにそれぞれにフェアにいこうと考え映画ではナレーションを省きました。
砂鉄:「私はこう思った」と入らないわけですね。
木寺:淡々と描こうとしてもやはり何か滲んでしまうのでナレーションを省きましたが、書籍はそういうわけにはいきませんでした。
本作はインタビューが中心ですが、三者のインタビューを相互に並べながら時間を追っていくような流れになっています。そこの行間を文章で書いていくとき、ゴールがない「問いかけ」として、こちらの主観が入らないように、誘導にならないように気にかけました。
砂鉄:地元新聞社が当時どのように報道したか振り返り、会社の中で新たなプロジェクトとして再検証していく様子を監督が聞きに行くというのは、新聞社からするとウェルカムな立場ではなかったと思います。自分たちの報道がどうだったのか裸で見せなければならないわけですから、メディア同士で距離感を設定して深堀りしていくのは難しかったのでは
木寺:地元紙の西日本新聞の方々、特に当時はサブキャップで、社内でスクープを出すか議論があった際に反対していたものの押し切られた方が、二十数年経ち編集局長になって検証を始めるんですね。この方が本当に腹が据わった方でした。
「やり過ぎた報道だ」と追及されてもおかしくない、一番のリスクがある西日本新聞が自ら検証して、「もし自分たちが誤っていたらそれを正していく」と真摯に考えていらした。
これはNHKも含めて他が追随できないなと感じました。
砂鉄:僕も木寺さんもメディアの中にいる人間だと、スクープに限らず何か人より先に、大胆にいってやろうという誘惑というか欲があると思います。西日本新聞を取材して、自分に改めて矢印が向くことはありましたか。
木寺:映像の中でNHKが久間元死刑囚の車を逮捕前に追尾して撮影している場面が資料として出てきます。当然新聞もテレビ局も逮捕・スクープに向けて争っていた立場だったと思います。その中で唯一西日本新聞だけが検証を行って、スクープを取った宮崎記者の「正義というのは誰しもが持っていて、スクープを取ったときは警察の正義に傾いていた。今にして思えば正義というのは相対化して見るべきだった」と仰っていました。それぞれの正義に一方的に行ってはいけない、戦争でもなんでも正義を自分の中で咀嚼して何が正しいのか考えることがメディアにとって大切だと取材を通して教えていただきました。
砂鉄:メディア論の中でも「正義や真実は人それぞれにある」と定義としてはよく聞きますが、実際に人が亡くなっており、そして誰か殺めた人がいるという、ど真ん中に確定しなければならない事実・真実がある。この真ん中が無くなっている以上、いろいろな正義や真実とどう向き合えば良いのかというのがこの本、そして映画の強烈な問いですね。
木寺:そうですね。このタイトル『正義の行方』が全てを指し示しているもので、「裁判の行方」でも「真実の行方」でもないんです。つまり警察、弁護士、メディアこの三者が持つ正義を掘り下げていく、それを均等、フェアに読者・鑑賞者に提示する。
探すのは読者・鑑賞者であり、自分なりに考えてほしいと思います。
砂鉄:確かに『正義の行方』って、冷静に考えると不思議タイトルですね。正義って本当は終点にいなければいけないのに、ここからどうやって出かけていくかっていうことがタイトルになっている。今、監督が仰っている『正義の行方』という、ある意味首をかしげる言葉にどういう思いが込められているのか観ていただければと思います。
パンフレットにこの番組に出ていただいた森達也さんが「第二弾もよろしく」的な文章を書かれていましたが、それに対してはどうしましょうね?
木寺:随時、取材には伺っていてGW明けから夏休みに入る前ぐらいに第二次再審という二巡目の再審請求が動いています。一審・福岡地裁での判断が下されます。そこに是非注目していただいて、私もそこに取材に行ってその判断の可否を見続けていきたいと思います。
真実は永遠に闇の中
starstarstarstarstar - 2年前
この映画が作られた意味を考えさせられました。
予告を観る限りかなり冤罪に近いと感じさせるものの、
被告人に関する重要な事実はなぜか描かれない。
消化不良でさらにこの事件について知りたいと思わせられたことこそこの作品の意図したところか。
nhkで放送されて
starstarstarstarstar - 2年前
また映画館で観る必要があるのかと思った。