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遠い山なみの光 ポスター

遠い山なみの光

3.9 123分 2025/9/5 (金) 公開
ドラマミステリーG日本イギリス
チケット予約

あらすじ

日本人の母とイギリス人の父を持ち、ロンドンで暮らすニキ。大学を中退し作家を目指す彼女は、執筆のため、異父姉の死以来足が遠のいていた実家を訪れる。母の悦子は、長崎で原爆を経験し、戦後イギリスに渡ってきていたが、ニキは母の過去を何一つ聞いたことがない。夫と長女を亡くし、想い出の詰まった家で一人暮らしていた悦子は、ニキと数日間を共にする中で、最近よく見るという、ある「夢」について語り始める。それはまだ悦子が長崎で暮らしていた頃に知り合った、佐知子という女性と、その幼い娘の夢だった。

場面写真

予告動画

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キャスト・スタッフ

監督
石川慶
キャスト
広瀬すず/二階堂ふみ/吉田羊/カミラ・アイコ/柴田理恵/渡辺大知/鈴木碧桜/松下洸平/三浦友和 ほか
配給
ギャガ
公式サイト
https://gaga.ne.jp/yamanami/

クチコミ

chakemo ネタバレ

行間を補完する

- 1年前
※本文にネタバレがあります ネタバレを読む

原作の「行間」をドラマティックに解釈して補完し映像化した素晴らしい作品でした。 原作はたくさんのセリフの中に存在する行間を紐解き、読者に幾通りもの解釈と考察をさせる心理的ミステリーでもある。 この映画での結論は、無限にある解釈の中の一つ。 小説ではここまでの種明かしはないです。 映画として視覚への訴えを上手く利用し、あの不穏さと違和感を明瞭に表現していました。 原作読まずに鑑賞で、大丈夫と思います。 カズオ・イシグロ好きなので長くなります。 (決定的なネタバレは避けますが少し触れます) 語り手の言葉の中に潜む後悔や失敗から記憶のアップデートや改ざんは、カズオ・イシグロ作品に多く見られる手法。 言葉の一瞬の綻びを見出した時、 全てが足元から崩れぞっとする戦慄を覚える。 戦慄が走る瞬間は、もっと後の作品には多く見られるのですが、今作は初期作品だからかほんの一瞬ひらめく程度に薄くちりばめられているのみ。 あの淡々とした小説を、見せすぎず見やすく美しく映像表現した監督の感性と力量に感服します。 しかし。 塗り替えた記憶を「嘘」として突き放すのではなく、その人を糾弾することもなく、やさしく抱擁し許容するのがカズオ・イシグロ。 「何もかもなくなってしまった」長崎。 戦後に価値観を正反対にひっくり返された上、時代に翻弄され、すぐには順応できない人もいる。 娘景子との接し方に取り返しのつかない失敗をしてしまった悦子。 ‥‥たくさんの、上手く乗り越えられなかった人達に「希望を」とやさしく温かく包むのです。 猫好きにはつらすぎる描写がありますが、これは原作に忠実な為仕方ないのでしょう。 あと私はこの本を読んだ時に二郎の父「緒方さん」と悦子の関係が、なんというかとても控えめで禁欲的なエロさがあるように感じてました。 「男性的な魅力にあふれ」「二郎と知り合う前から大変お世話になり」彼をお義父さんと呼べない悦子は二郎の前ではお義父さんと呼び、緒方と2人でいる時は快活で楽しそうなのです(二郎は高圧的で小うるさくずんぐりとした…という人物ですが松下洸平はイケメンすぎました笑)。 映画でも広瀬すずさんが呼びかける「緒方さん」の声に微かな色香を感じ、本当に素晴らしかったです。 佇まいから美しい。 映画だけ観るのも良し、観て読むのも良し。

どするん ネタバレ

目覚めの光

- 1年前
※本文にネタバレがあります ネタバレを読む

わからなかったー、どうゆうこと?? 原作も未読で辻褄が自分の中で合わせられないけど、様々な解釈ができると言うことで私なりの解釈を。 広瀬すず演じる悦子が佐知子と万里子と出会い、新たに目覚めて時が経ち、今は新たな環境で生きる悦子の半生を描いた作品。 日本と外国、大人と子供、男と女、戦前と戦後 大きく異なる2つの存在が少しずつ衝突しながらも混ざり合って溶け合っていくような映画。 冒頭、悦子は目を細め、ハイカラで外国人と抱擁を交わす佐知子を見る。この出会いを機に、長崎で家父長的な家庭から新しい時代の幕開けを悦子も迎えることになる。悦子の旦那二郎は悦子にネクタイを結んでもらい靴紐も結んでもらい客間を片付けさせ家の大黒柱として仕事に出る典型的な昭和の男という感じで、悦子も専業主婦として献身的に二郎を支える。 悦子が原爆で親しい人を亡くした時に家に住まわせ教員の道を示した二郎の父緒方校長が家に来た時もお弁当を作り、もてなしが十分か気にしてるが、二郎は将棋も付き合わずすぐに寝てしまい、極力父と関わりたくないと態度で示す。二郎からすれば死地に万歳三唱で送り出した父を快く思うことはできず不自由な右手が疼く。 校長の緒方さんも家では柔和な人柄だが、教え子の教員が自身の過去を批判する文章を目にして、最初こそ何かの冗談だろうと物腰柔らかく確認するが、面と向かって自分の教育を否定され、怒りに震える。世代間の対立は当時も今もあるが、ここでもお互いに新鮮に衝撃的だったのであろう。 頑固で男性支配的な緒方親子の態度を目の当たりにした悦子はますます不満を募らせ、佐知子との距離が次第に近づいていく。 佐知子は万里子に対して放任的というか、自立性を強く求めており、娘が男の子らに囲まれていても我関せずという態度である。猫を見捨てられなかったり射的に夢中になったり子供らしさを見せられると辟易とした表情を浮かべる。一方で悦子は万里子を可愛がり、言いがかりをつけられた時は万里子を我が子の如く強く擁護する。 このあたりから長崎にいる悦子とロンドンにいる悦子は違うように見えてくる。 独立した女性像を体現し、品のいいティーカップを使い、海外に行けば状況が好転すると言うなど、ロンドンにいる悦子は長崎にいる佐知子なのではないかと見えてくる。最初こそ佐知子に感化されて二郎と離別するか死別して外国人と再婚し、海外に移住したのかと思ったが、どうやらそうではない。 ロンドンにいる次女のニキからも姉のケイコが首を吊って自殺した事実が明かされ、何かを抱えていた過去が語られる。家族写真に映るケイコの姿は長崎の万里子そっくりで佐知子=悦子、ケイコ=万里子の構図が見えてくる。 てっきり長崎の悦子が佐知子を殺してケイコを奪ったか、長崎の佐知子が悦子に、万里子がケイコに成り代わったのかと思ったがそうではない。 猫を殺め、万里子にロンドンへ行こうと諭す悦子は万里子のことをケイコと呼び、万里子もそれを受け入れている。つまり、万里子はケイコであり、ロンドンの悦子は長崎の悦子であり佐知子でもあったということ。 この映画の多くは回想シーンとしてロンドンの悦子が語る長崎の姿であり、それ自体が曖昧なものである。ロンドンの悦子が喪服姿で回想に登場することからもファンタジー要素が入り込んでいることがわかる。 長崎の悦子と佐知子は対照的な2人に見えるが、ロンドンの悦子は2人の要素を合わせ持ち、2人がどこまで本当に存在してたのかは判然としない。 他の人のレビューにもあったが、悦子と佐知子は出会った時、赤と黄色の服だったが最後は似た色の服をきて同化しているのを表していると。確かに。気づけなかっただけで、こういったメタファーが恐らくかなり散りばめられている。 もしかしたら悦子の中で辛い過去を悦子と佐知子で半分こにしたのかもしれない。悲しみみたいな感情を失い、次女のニキのことも全肯定しているようで実のところ無関心な態度をとってしまうのは、原爆の悲劇や差別された過去を過ごし、どこか諦観したからのようにも思う。 ケイコを失ったからこそ、自身の子育てをエクスキューズしたいのかもしれないし、いい母親でもあったと思い込みたいのかもしれない。 海外に来たことがいい選択だったと、長崎の緒方家を自分の中からオミットして今を肯定したいと思っているのかもしれない。 30年の時が経ち、ただ記憶が曖昧になっているのかもしれない。 何が事実としてあったか正確にはわからない。 それでも戦後の長崎で揺れ動く悦子の様子は不安定で不確かで魅力的に映った。他者への羨望、恐怖への抵抗、自由への渇望。悦子と佐知子の邂逅は悦子にとっては目覚めであった。そしてその時代自体が日本にとっても夜明けであった。 遠い山並みから覗く光は日の出ででもあり日没でもある。 変わりゆく日々の中で光が差し込み、消え入る。 最後がミステリーのように作りになっていたことで私自身はそこに焦点を持って行かれてしまったが、ノスタルジックな映像は差し込む光によって効果的な演出になっていたように思う。俳優陣の演技も堂に入っており、静的な画が続いても退屈することなく時間が過ぎた。 猫を殺めるシーンや原爆の体験を語るシーンなど心穏やかにはとても見れないシーンもままあったが、決して思い出として昇華せずに現代にまで悦子の人生が連綿と続いてきたことを実感させられた。 見終わってすぐは?で頭がいっぱいだったが、よくよく振り返ってみると見応えのある映画だったように思う。 公開2日目なのに人が全然入っておらずプロモーションが足りていないように思えるのが残念なくらいには意欲的な作品だった。 もう一度観たい。

余韻が衝撃になっていく作品

- 1年前
カズオ・イシグロ氏のデビュー作が映画化されたと聞いて見に行った。 最後の展開の衝撃と、そこから受け手が紐解いていく「答え」に、小津安二郎作品と似た余韻を感じた。 これから見る人は、主人公の悦子の「嘘」を意識しつつ、途中で感じる「引っかか… 続きを読む

カズオ・イシグロ氏のデビュー作が映画化されたと聞いて見に行った。 最後の展開の衝撃と、そこから受け手が紐解いていく「答え」に、小津安二郎作品と似た余韻を感じた。 これから見る人は、主人公の悦子の「嘘」を意識しつつ、途中で感じる「引っかかり」を大切にしながら、あえて作品から「取り残される」感覚を大切にしてほしい。 悦子が語る言葉の微妙な綻びと、娘のニキが手にする「物」を通じて、映画を見終えた後に気付くことが多いはず。 映画の作品だけで何かを完結させたい人や、すぐに結果を求めたい人にとっては、恐らく「つまらない」「理解できない」といった反応になるだろう。 人の「記憶」だけで語られる人生や歴史がどれだけ恐ろしく、時に都合の良いものになってしまうこと。でもそれが人間の業でもあることを気付かせてくれる。 これだけ想像力をかき立てられる作品は久しぶりで、本当に見応えがあった。もう一度見に行きたいし、この作品を見た人と語り合いたくなる。強く強くオススメしたい。

OTASUKU ネタバレ

映画みただけではわからないので

- 1年前
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このあと原作も読まないとならないのかしら? という映画です。 ↓以下は追記です 完成した商品として、映画館で上映する以上、原作を含めて補完する情報に接しないと、お話の全体像がわからないという事は、映画作品として未完成という事なのではないでしょうか? ノーベル文学賞とか、カンヌ映画祭とか、が権威となってしまって作品の底上げの評価するってのは、映画界をダメにする兆しでしかない。

蛇鶴八歩 ネタバレ

回想の改変は一点のみ!

- 1年前
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それぞれのキャラクターがひとりひとり際立っていて、きちんとその人の行動として一貫してる印象。自分の「大切にしているもの」からブレることなく、貫き通す。その結果で「変わる」ことを求められます。自分で気づきます。 変化を自分で自分に求めていく。それぞれに真実がある。 ネタバレではなく勝手な解釈でこの後続けさせてください。 全てが悦子の回想で進んでいく訳です。 娘のニキが聴き出す悦子が語る物語。真夜中に眠れずに語り始めたお話。たぶん本当は誰にも話すことなく全ての鬱屈を墓場まで持っていくつもりだったのでしょう。しかし夢の中で見た女の人が背中を押しました(その女の人や電車から見える謎の女の人も実は自分だったというオチがつくのですがそこはそんなに重要ではない)。 物語を始める必然性が見事だと思いました。 鬱屈を抱え1人で生活をしている悦子に対して、物語上でこれ以上ない理由をつけて話をさせてあげる。優しい設定。まず悦子が存在していて、そんな悦子を楽にしてあげたいと考えた挙句に編み出した設定のような気がしました。 話がズレました。 回想です。なので、自由なのです。好きに改変ができるのです。悦子の主観だけ。 その主観の中で紡いだ物語。現実にあった出来事以外は好きに書き換えれるはず(そしておそらく書き換えている)。それにしてはしっかりとし過ぎている。「作られた感」がない。 映画を最後まで見終えた後、ここに違和感を感じました。「辻褄が合わない」のではなく「しっかりし過ぎている」。悦子と佐知子は同一人物であると示唆されますが、それにしては全部が真実に見える。全ての人、考え方に血が通っている。 おそらく全て真実だと思います。ただ一点を除いて。改変は大きくひとつだけ。 「景子が産まれる前の悦子」に「景子が産まれた後の悦子(産まれた景子も含む)」を出会わせた。 そしてそれを取り巻く真実や心の動きもそのままに時間をずらせたということでしょう。景子を産んだ悦子」を前倒しにして登場させたということになりますかね。 名前は変えて軽く整合性は取ったような気はします。「佐知子」を「幸子」としなかったのは、本当は「幸せ」の幸子にしたかったのだがあまりにも違い過ぎて罪悪感からそれはできなかった。でもせめて名前だけは「さちこ」としたいから「幸」という漢字は重すぎるので違う漢字を当てたのだと勝手に邪推します。 また話がズレました。 それは可能なのです。なぜなら両方同じ人生なのだがら。変わる前の人生なのだから。変わってしまった後の人生なのだから。両方、経験してる人生なのだからなのです。だからこそ全部に血が通っている。こう考えると腑に落ちました。遡って考えてみると………としましたが違う。答え合わせをするような映画ではありません。そこに伝えたいものはない。それは手段で あって目的ではないような気がしました。 悦子自体も明確な意図を持ってそうしたのではなく、たまたま夢で見た女の人を自分と気付きながらもそのまま乗っかったようにも思えます(全部を否定するようですが笑)。 「変化」がポイントですよね。「変らなきゃ」とから「変わるべき」というような言葉がやたら多かった。いろんな人に変化を求める時代だった。それも本当に大きな変化です。生毛が空気に舞うようにふわふわしてあっちに行ったりこっちに行ったりする軽い変化ではなく、飛行機が飛んでいる方向を変えるために舵をきるように、明らかに意図的に進んでいた方向から進行方向を変える(むしろ反対方向に進まざるを得ない)くらいの大きな大きな変化です。 そんな時代、と一言で言っでしまえばそれまでですが、劇的に変わっていく世の中で取り残されないようにみんな生きてる。今もそうですね。願わくば変わらなければいけないものと変わってはいけないものを区別したいものです。 あーそうか。なるほど。 悦子にとって「景子を産む前の悦子」は変わってはいけないものだったのかもしれません。「景子を産んだ後の悦子」は変わってはいけないものが変わってしまった姿。そういう想いがごちゃごちゃになってしまった。まあ回想ってそういうものですね。デヴィットリンチの一連の作品に似てる気もします。筋が通っているような素振りでもありぐちゃぐちゃの素振りでもあってそれでも筋は通ってるところもあるという(笑)。 キャラクターも不思議。軍国主義の緒方先生は、そのまま軍国主義でバリバリ言いたいことを激しく言う人であるはずが、柔らかな物腰で気遣いのできる人物。ひとつ許せないことのためだけに一回だけ激昂したが、それだけ。 激昂した相手も激昂返しするかと思われたが、敬意は忘れずに「夜明け」であると諭すだけ。 全体的にオーバーめなアクションはなかったと思います。激しい時代なのに。いや、戦後7年くらいの設定だったか。それであえてこの時代の選択だったのだろうか。 唯一、オーバーめだったのが佐知子だったと思います。はっきりとしたお嬢様口調。これは本来は長崎弁の悦子であるから想像の産物であるという演出なのかなあ。と勝手に思ったりしています。 それぞれに真実がある。 そして自分に置き換えてあの時の俺とあの時の俺が出会ったらどうなるのかなあと考えて見ると…。 意気投合して同じくズルズルさぼり続けるような気がした笑。結局は変化してないということだろうか。変化を求めなければと決意したのでありました。 (それでも今「変化を決意した俺」も「違う俺」に会うとダラダラに飲み込まれてくんだろうなあという想像になります笑) このレヴューも話ブレブレですみません。

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