写真が人に与える影響。対比と逆説の面白さ
私を覆っている薄い皮膚のすぐ下には、真っ赤な血がものすごいスピードで駆け巡っている。 つい忘れがちだけど、生きるって、それだけでかなり情熱的なこと。 自分だけのこだわりが詰まったルーティンで生きてきた男が、誰かを生かす為に自分を捧げる。覚悟… 続きを読む
私を覆っている薄い皮膚のすぐ下には、真っ赤な血がものすごいスピードで駆け巡っている。 つい忘れがちだけど、生きるって、それだけでかなり情熱的なこと。 自分だけのこだわりが詰まったルーティンで生きてきた男が、誰かを生かす為に自分を捧げる。覚悟のシャッター音に痺れました。 もしかして、ミューズを得た芸術家たちも、本当はカマキリのオスだったのではないかと思えてきます。 とくに葬儀屋さんのエピソードがお気に入りで、“虚像”が“リアル”に与える安らぎと切なさと恐ろしさが素晴らしい!季節が夏の設定なのも納得。 江戸っ子おじさん西村喜廣の特殊メイクも見どころです。 (したまちコメディ映画祭復活熱望) 写真を撮るという行為と、写真を見るという行為の移り変わりについて、とても丁寧に描かれていて、改めて写真は不思議で面白い媒体だと感じました。 ちょっと前までスナップ写真は、過去の瞬間を閉じ込めた遺影で、いつの日か見返す事を想定してシャッターを切っていたと思うのですが… 今や共有するのが目的で、なんならシャッターを切る瞬間から不特定多数を意識している。 SNSにアップされた写真は承認欲求を満たす為のツールへと変化し、パーソナルな思い出は情報として消費されるようになったのだなぁ。 あたり前ですが、私たちは他の媒体を通してしか、自分の姿を知ることが出来ない。 ・水に映る自分(水面や湯桶) ⇒自己の発見:今の瞬間の自分には違いないが不鮮明 ・鏡に映る自分(カーブミラー、車の窓ガラス) ⇒自己の確認:今の自分自身をクリアに確認できるが、自分の横顔を見ることは出来ない ・写真に映る自分 ⇒自己の客観視:他者から見える姿に一番近いが、リアルタイムではなく過去の自分である 鏡に写る自分を受け入れられる人にとって、写真は過去の遺影でしかないけれど 誰かの目を通してでないと自分を愛せない人にとっては、写真は自分そのもの。 手軽に写真を加工できる現代においては、理想の自分を作りあげることも出来る。 セルフプロデュースは加速していき、虚像にリアルが引きずられていく。 でも、それは決して病んだ負の世界とは言い切れない… この映画の面白さは、逆説の二重構造にあると思います。 全ての事柄には良い面と負の面があって、どちらのバランスに傾くか次第だし、たとえ負の面に傾いて見えたとしても、当事者にとっては幸せだったり。(←ゾクゾクする大好きなポイント) いろんな対比が描かれているので、それらを挙げていくだけでも、相当楽しめます。 以下、お気に入りのシーン (ネタバレが気になる方はご注意ください) 白線を踏んで歩く男。 白へのこだわりの強さと子供っぽさが同居した、神経質でヤバい大人なのがわかる。 口数が少なく、話せないのかと思いきや、自分の言葉を発信しないSNSから一番遠い存在として描かれるので 対する女の服の柄が強すぎて笑えます。 くるみ割り人形の話だけでわかる、女のデリカシーの無さ。 ポイントがズレていて、とてもその世界に触れていた人とは思えないww 愛されたい願望が強い割に、自分を客観視できていないところに、頼れる人が居ない原因が透けて見える。 やっぱり葬儀屋さんのシーンは、どれも素晴らしい。 写真の新しい可能性を見せてくれたと同時に、写真による記憶の改ざんの立証にもなってしまった。 空白の時間を埋めた幸せと、倍増する孤独。 晩酌のシーンはとくに見事で泣けました。 カーブミラーの先を想像させる余韻が、いまだにずっと続いていて… もしかして私も『写真の女』という映画の虚構に囚われたのかもしれません。