親父の過去が壮絶すぎた
親父の過去が壮絶すぎた。 てか悪役が、 他作でもなかなか類を見ない程の極悪非道でドン引きしちゃった😅
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廃墟となっているかつての哭倉村に足を踏み入れた鬼太郎と目玉おやじ。目玉おやじは、70年前にこの村で起こった出来事を想い出していた。あの男との出会い、そして二人が立ち向かった運命について......。昭和31年―日本の政財界を裏で牛耳る龍賀一族によって支配されていた哭倉村。血液銀行に勤める水木は当主・時貞の死の弔いを建前に野心と密命を背負い、また鬼太郎の父は妻を探すために、それぞれ村へと足を踏み入れた。龍賀一族では、時貞の跡継ぎについて醜い争いが始まっていた。そんな中、村の神社にて一族の一人が惨殺される。それは恐ろしい怪奇の連鎖の始まりだった。鬼太郎の父たちの出会いと運命、圧倒的絶望の中で二人が見たものは。
©︎ 映画「鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎」製作委員会
親父の過去が壮絶すぎた。 てか悪役が、 他作でもなかなか類を見ない程の極悪非道でドン引きしちゃった😅
昭和31年。戦後日本の財政界で絶大な権力を誇る龍賀一族の当主・時貞が逝去する。龍賀一族が経営する龍賀製薬と取引のある帝国血液銀行に勤める水木は、龍賀の娘婿である社長の克典と懇意にしていた。次期当主と目される克典に表敬すると共に、龍賀製薬秘伝の「血液製剤M」の謎を探るため、一族が暮らす哭倉村へ向かう。 ◆ 名乗らないなら「ゲゲ郎」と呼ぶぞ。 日本を代表する妖怪漫画『ゲゲゲの鬼太郎』を原作とした劇場版作品であり、原作者の水木しげる生誕100周年を記念した作品。 原作漫画の主人公である幽霊族の少年・鬼太郎の出生に係るエピソードであるため、鬼太郎本人の出番はほとんどありません。今作では鬼太郎の父親である「目玉おやじ」が目玉の姿になる以前、幽霊族の末裔として活躍するストーリーでした。 〝行方不明の妻を探していた鬼太郎の父(本作では「ゲゲ郎」と呼称されている)は、妻の気配を感じたという情報を頼りに哭倉村を訪れる。そこで水木と出会い、龍賀一族にまつわる忌まわしい事件に巻き込まれていくー〟というのが本作のあらすじ。きちんと人型の姿で、下駄をカランコロンと鳴らし、激しいアクションシーンさえ見せるおやじは新鮮でした。 原作者が逝去されている作品の前日譚を描いている今作で、シリーズにおける主要キャラ(目玉おやじ)の真名を明らかとせずに、原作タイトルにちなんだ「ゲゲ郎」という名前を付した点に配慮を感じます。ラストシーンでは『墓場鬼太郎』の冒頭へと繋がるように辻褄を合わせた脚本も面白い。 ◆ この先、地獄が待っておる。 閉鎖的な田舎町。法治国家であることを疑ってしまうほどに絶対的な強権を持っている地主。そして其の血統を保持するために今なお続いている因習。陰鬱な雰囲気が存分に漂う舞台で巻き起こる凄惨な事件は、『八つ墓村』『犬神家の一族』などの金田一耕助シリーズを彷彿とさせます。原作が子供向けアニメだと侮っていましたが、PG12指定されている作品だけあり、人体欠損の描写や近親相姦のテーマなど過激なものもありました。 ゲゲゲの鬼太郎と言えば(作品によって「生まれつき」「墓石に打ち付けた」などの差こそあれ)左目が無い隻眼である事が特徴です。陰陽道では左は陽の気をあらわすそうですが、目玉おやじも父親の左目が独立して動いていることからも、左目には何かしらのこだわりを感じます。 今作に登場した水木というキャラクターも左目元に傷を負っていましたし、龍賀に連なる事件の犠牲者たちも左目の眼球が失われるような亡くなり方でした。妖怪戦闘パートとあわせて、この点は今作と『ゲゲゲの鬼太郎』との繋がりを感じる部分でした。 ◆ そんなもの有難がる人間の気が知れぬわ。 今作では主に哭倉村での事件を中心に描いていますが、龍賀の当主は戦後日本の財政会に広く影響を及ぼす実力者というキャラクターでした。邪な妖術にも精通していた当主の時貞は、幽霊族の血液を原料とする血液製剤Mを製造。第二次大戦中に開発され、服用した兵士は「何日も飲まず食わず眠らずで戦い続けることができた」というこの薬を、戦後も一族が経営する製薬会社を通じて流通させた事で、戦後復興の影の立役者であるような描かれ方をしていました。 しかし、この薬の製造過程には恐ろしい秘密が隠されており、現在の(作中における昭和日本)社会は多大なる犠牲の上に成り立っていたことが明かされます。犠牲の上に成り立つ社会を否定するというテーマはよく目にするもの。今作は悲しい犠牲と多くの怨嗟を生み出した張本人である龍賀を打倒し、次世代の希望として鬼太郎が誕生するという構成。今後「霊毛ちゃんちゃんこ」を見る度に目が潤んでしまいそうです。 血液製剤Mの製造方法を知らなかった水木がこぼした「皆がこいつを打って働けば、日本は世界一豊かな国になるだろう。」というセリフ。ゲゲ郎は「人間の気が知れない」と一蹴しますが、かくいう私も育休前にはMから始まる名前のエナジードリンク飲んで残業をしていました。 〝企業の戦士達だよ、水木君。戦争はまだ続いているんだ。〟
ゲゲゲの鬼太郎は小さい頃にずっと観ていたが、こんなはじまりがあったとは 見応えたっぷりで面白かった
水木しげるの戦争体験から反戦へのモチーフも取り入れ、この世の不条理をある村の悲劇の物語がきっかけで鬼太郎誕生となるストーリーを見事に作り上げた作品。
ヒロインは、なぜ殺されるのか。凝り固まった女の役割の再生産と正当化が繰り返される。鑑賞後しばらく言語化できない火種の様なわだかまりがずっと残っていた。 キービジュアルを見た瞬間に周囲のオタクたちが一目で魅了されたという主役二人の姿。(わかる) 彼らの関係と考えの変化。 (「相棒」と言い切るほどの共闘感はなかったように感じたが)バディによる血みどろの武器・人外の身体能力・特殊能力バトル。(アツい) 躍動感のある動きと遠近・陰影のメリハリのある背景など質が高いアニメーション。 人間と妖怪の境界を青系と赤系の色の対比やアニメならではの色彩で表し、昭和31年当時の社会背景も緻密に描写。(支配者層に搾取される側の人間でも、さらに弱い立場の者が紫煙に咳込んでいることに最初は思い至らないという搾取の多重構造が描かれている点に好感) 次世代を搾取する者と次世代に尽力する者によって対比される「家族の絆」の光と影。(やあやあ我こそは対比描写大好き侍) 戦前日本の支配者層の醜悪さと、終戦してもなおその腐敗と搾取の構造が一掃されることなく温存されている近現代社会への批判。 数多のオタク、特に女性オタクたちの癖(ヘキ)に刺さるのも頷ける。(マジでYes,I think so.) アニメだからと子ども向けに甘ったるくしない――どころか鉄錆と吐瀉物の味が口いっぱいに広がりそうな展開に、観賞後にファンがこぞって存在しないストーリーを描[書]いてセルフ・アートセラピーを始めるのも頷ける。 どうか心を大切にしてほしい。 それでも本作を高評価できないのは、女が「子産み袋」扱いされる悍ましさを絶対的な悪として描きながら、目玉の親父の妻岩子を作中最も都合の良い「袋」扱いしている言行不一致と自己矛盾に強烈な違和感を覚えたからだ。 作中、彼女のパーソナリティや目玉の親父と恋仲になったエピソードなどは具体的に描かれず、「美しい外見」と「人間好き(なぜ好きなのかは不明)」、くらいしか言及されない。 後半に本人が登場したら会話やモノローグで描写されるのか、すわ搾取され続けた妖怪たち、女たちの怒りをまとめて彼女が鉄槌を下す激アツ展開かと思いきや、最後まで主人公たちが奮起する動機と鬼太郎を産む役割に使われる。 思い出すのは『女が死ぬ』(松田青子,中公文庫)の同名表題作だ。 「女が死ぬ。プロットを転換させるために死ぬ。話を展開させるために死ぬ。カタルシスを産むために死ぬ。それしか思いつかなかったから死ぬ。ほかにアイデアがなかったから死ぬ。というか、思いつきうる最高のアイデアとして、女が死ぬ。 女が死ぬ。彼が悲しむために死ぬ。彼が苦しむために死ぬ。彼が宿命を負うために死ぬ。彼がダークサイドに堕ちるために死ぬ。彼が慟哭するために死ぬ。元気に打ちひしがれる彼の横で、彼女はもの言わず横たわる。彼のために、彼女が死ぬ。 女が妊娠する。新たなドラマをつくるために妊娠する。新たなキャラクターをつくるために妊娠する。停滞した状況を前に進めるために妊娠する。」 (一部抜粋) ゲゲ郎が妖怪族の人間族に対する抵抗を、水木がプロレタリアート階級のブルジョアジー/エスタブリッシュメント階級に対する抵抗を描くのなら、妖怪であり、プロレタリアート階級であり、女性である、すなわちトリプルマイノリティである岩子は本作の「搾取」と「抵抗」というテーマの象徴的存在であり、自我を奪われた龍賀の女たち4人の対比的存在だ。 そんな彼女からパーソナリティや自我を語る台詞・シーンを奪ったのは、時貞ではなく制作者だ。 ファンたちの熱い礼賛を聞くにつけ、一人のオタクとしてわかりみがマリアナ海溝なのだが、どうしても最後まで残ったグロテスクな搾取構造に賛辞を送ることができなかった。 「声を奪われた女」を描くなら、その声を取り戻す物語を描かなければ、抵抗を描いた物語として片手落ちだ。せめて岩子自身が「なぜ人間を好きだったのか」を語る、または怒りや抵抗の意思を示す台詞の一つでもあれば、搾取から自立した主体となり得たはずだ。 本作は、支配者層への抵抗を鮮血と共に描いた傑作である一方、最下層に置かれた者から最小限の自我すら奪い沈黙させた時点でその抵抗の物語に自己矛盾を孕んだと言わざるを得ない。 抵抗の物語を描く側は、まず沈黙を聞き取らなくてはならない。