ドレフュス事件、あるいはナチスドイツ誕生の序章
19世紀末フランスを揺るがしたドレフュス事件のことは、ピカール中佐とゾラの弾劾文j’accuse(この作品の原題)が重要な役目を果たしたこと以外、詳しくは知らなかったので、この映画の公開をとても楽しみにしていました。 まだ3回観ただけです… 続きを読む
19世紀末フランスを揺るがしたドレフュス事件のことは、ピカール中佐とゾラの弾劾文j’accuse(この作品の原題)が重要な役目を果たしたこと以外、詳しくは知らなかったので、この映画の公開をとても楽しみにしていました。 まだ3回観ただけですが、1世紀以上前のフランスが過去の世界ではないこと、現代まで地続きであることを痛感させられます。この事件から38年後にはナチスドイツが生まれ犯罪の限りを尽くし、フランスにもナチスドイツの傀儡政権であるヴィシー政権が誕生する。ナチスドイツは連合軍に倒されたものの、戦後半世紀を経て再びヨーロッパのあちこちに極右が台頭し始め、今やフランスでは極右政党の党首が大統領選の決選投票を争うまでとなっているのも、この映画を観ると合点がいく。冤罪や事実のねじ曲げや捏造、殺人さえいとわない人々の尋常ならざる熱気、ドレフュスやピカールやゾラを有罪に仕立て上げようとする人々の必死さは、その後ヴィシー政権を誕生させたものであり、それが連合軍による終戦で消滅するとは思えないからです。 真実を突きとめようとするひと、大勢に逆らってでも本当のことを伝えようとするひとが、裏切り者呼ばわりされ四面楚歌の孤立状態に陥る似た事例として、昨年観た『モーリタニアン』が思い起こされます。さらにそれより以前に観た米国ブッシュ政権によるイラク侵攻の理由のでっち上げを扱った『新聞記者たち』も。ピカールが味わっただろう敵の魔の手の不気味な感触は、脚本と監督同コンビの『ゴーストライター』なども思い出させます。白を白と、黒を黒と言う人間が、白を黒、黒を白と言う人間たちに包囲非難攻撃され孤立する状態、国をあげて作り出されるこういう状況が、人間の歴史には病気のように繰り返されるようです。そのことを頭に叩き込んでおきたい。平気で間違いを犯す(「上からの命令で人を殺し、それが間違いでもわたしの責任ではない」とは!)多数派の一員には決してなりたくないから。同調圧力にも屈したくないから。文書捏造、文書改竄、隠蔽、偽証、殺人、など、手段を選ばない権力もさることながら、場外あるいは背景あるいは制服外で「殺せ!」を連呼する民衆が恐ろしい。日本の戦時中もたぶんそのようだったでしょう(連呼されたのは「殺せ」ではなく「非国民!」だったにせよ)…。人間社会に伏流する感染力の強い心の病気、その底知れぬ恐ろしさを学ばせてくれる作品です。チラシやポスターの写真やタイトルは、退屈なコメディかと勘違いしそうですが。 ドレフュス役のルイ・ガレル、ピカール役のジャン・デュジャルダン、ピカールの恋人役のエマニュエル・セニエ、いずれも好演。特に後者ふたりの関係が何だか微笑ましく、最後の掛け合いなど笑えてしまいます。女性問題がピカールのキャリアの致命傷にならなかったのは、フランスならではなのでしょうか。この時代にはまだ残っていたらしい決闘場面は、予想外の楽しみだが、この場面はこの映画全体を象徴する場面でもあり重要だ。文書捏造、文書改竄、偽証など、部下や上司まで操って、上司の命令なら殺人も厭わないとうそぶくアンリは、真実と事実と正義に殉じようとするピカールの対極、真の敵だからだ。立ち上がれないアンリに手を差し伸べるピカールは、真の英雄である。 【追記】ドレフュスに対する冤罪、ピカールに対する冤罪がどのように作りだされたのか知りたくて、何度も鑑賞。責任の所在のわかりにくい組織犯罪というものがどのように行われるか(の一例)を学ばせてもらいました。映画で観る限りでは、S大佐、A少佐、G将軍の罪が大きいと思われるものの、「国防という重責を担う」はずの軍部全体がデマゴギーのテーブル上でこっくりさんに興じているかのようで、滑稽でもあり恐ろしくもあり、しかも2件の冤罪作りに励んだ将軍たちの誰もその後咎めを受けてないのだろうから、ひどいものである。要職にある人間の空疎な大言壮語と、群衆と軍部と政府が一体となった歴史を変えるほどの悪意の狂騒。今でもどこかで行われているのだろう。