☆4.5
「三角関数なんて、モル質量なんて、ナ行変格活用なんて、ヒポクラテスなんて、平均台なんて、人生でいつ使うんだ」——誰もが一度は抱くこの手の疑問の根底には、現代教育が抱える歪みが垣間見える。 人間は本来、知的好奇心に溢れ、世界の原理を知ることに… 続きを読む
「三角関数なんて、モル質量なんて、ナ行変格活用なんて、ヒポクラテスなんて、平均台なんて、人生でいつ使うんだ」——誰もが一度は抱くこの手の疑問の根底には、現代教育が抱える歪みが垣間見える。 人間は本来、知的好奇心に溢れ、世界の原理を知ることに喜びを感じる生き物であるはずだ。しかし、「国に役立つ軍人や労働者」を効率よく作るためのシステムとなった教育は、いつしか大人が与えてくれる、期待された「正しい答え」に早く辿り着くことが目的の「忍耐訓練」にすり替わってしまった。 (フーコーの『規律訓練型社会』を彷彿とさせる) 本作は、そんな大人の都合で固められた教育の枠組みを鮮やかに壊し再構築してみせる。 法則を暗記するのではなく、日常生活の「なぜ?」を解き明かすツールとして用いることで、法則や数式は人生を切り開く生きた鍵になる。 しかし、本作が2011年に実際に起きた単なる「熱血教師の成功譚」に埋没しないのは、子どもたちの前に立ちはだかる現実の壁をリアルに描き出しているからだ。 ギャングから足抜けできない少年、幼い妹の世話に追われるヤングケアラー、そして今日を生きるために父を支え働かざるを得ない少女。 彼らにとって「成績が良いなら進学すればいい」という正論は、時に残酷なほど無力だ。たとえ奨学金で学費を賄えても、食費や住居費といったインフラ代、そして稼ぎ手である子どもを失えば生活が破綻する家族の事情までは救済できない。 一人で自立する術を持たない子どもにとって、親や環境は唯一の支えであると同時に、逃れられない壁でもある。時に教育が「贅沢品」になってしまうメキシコの過酷な現実を、本作は決して誤魔化さない。 そしてこれは教室の生徒に限らない。 作中、特にセリフのない緑色のシャツの少年が何度か登場する。彼は途中まで乗っていた祖母の姿が消えた後も、空になった車椅子を押しながら学校を覗き込む。 物語のラストの彼の無言の後ろ姿は、「学校に通う選択肢すら持てない子どもがまだ存在する」というメキシコの過酷な現実をサクセスストーリーの陰に隠蔽することを許さない。 この「大人の都合」と「子どもの現実」の対比を象徴するのが、カメラを子どもの目線である「122cm」に固定した演出だ。この視点が、大人たちの映り方に決定的な差を生む。子どもが信頼し、自ら目を合わせようとする大人の表情ははっきりと映し出されるが、子どもを「格下」や「道具」として扱う大人は、たとえ親であっても顔が映らない。 自身の子ども時代を振り返っても、子どもは単に「子ども扱い」されることよりも、話を聞いてもらえないことや、納得いかないことに従うよう強制される、「格下扱い」されることを何より嫌うものだ。 彼らは決して、将来の社会を支えるためだけの「予備軍」ではない。「国の宝」という綺麗な言葉で片付けるものでもない。 今この瞬間を懸命に生き、思考する独立した存在の知的好奇心を奪う「訓練」から彼らを解放し、思考し、驚き、世界を理解する。学ぶ喜びの原点をこの教室で見ることができる。 《余談》 ①大学図書館で、哲学の本を探すルペを書架に案内する役を演じているのは、本作で描かれる数学の天才少女のモデルになったパロマ本人だそう。 (彼女たちの卒業後の進路が気になるところ) ②たとえこの教室の教え方をしても、「落ちこぼれ」や「不合格」になってしまう生徒はきっと存在する。 学力の差が個人の努力の問題に回収されて結果的に強固な自己責任論になってしまう懸念や、別のプレッシャーや暴力になり得ないのかという疑問も持った。 (これに関しては成績や評価の仕方も多様化しないと難しいかもしれない) ③教義や答えを教えるのではなく「なぜ?」「どうして?」「どうしたら?」を問い続け、人生の主体者が自分であることを学ぶ教育は、ベルファスト(北アイルランド)のホーリークロス男子小学校の哲学授業を記録した『ぼくたちの哲学教室』を思い出した。