弔辞
あれラストどうなった
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主人公のウェン・シャンは大学院まで進学しながら、脚本家として商業デビューが叶わず、不思議な同居人シャオインと暮らしながら、今は葬儀場での〈弔辞の代筆業〉のアルバイトで生計を立てている。丁寧な取材による弔辞は好評だが、本人はミドルエイジへと差し掛かる年齢で、このままで良いのか、時間を見つけては動物園へ行き、自問自答する。同居していた父親との交流が少なかった男性、共に起業した友人の突然死に戸惑う会社員、余命宣告を受けて自身の弔辞を依頼する婦人、ネットで知り合った顔も知らない声優仲間を探す女性など、様々な境遇の依頼主たちとの交流を通して、ウェンの中で止まっていた時間がゆっくりと進みだす。
©︎ Beijing Benchmark Pictures Co.,Ltd
あれラストどうなった
ウー・レイを観たくて映画を見たけど、出番が少なく残念。でも中身は、いい内容でした。
全体を通してスモーキーカラーの柔らかい色合いの映像が心地よく、殆ど意味がわからない中国語の音と共に、前半は軽い眠気に誘われた。 かつて脚本家を志した主人公の聞善が、弔辞を書くことを生業としているという興味深い設定。丁寧で誠実なリサーチを通して少しでも正確な故人の姿を描こうとするのだが、縁のある人から話を聞くにつれ、「人は関係を持った人たちそれぞれに、違う姿を見せている」と気づく。 こうして淡々と丁寧に、弔辞のエピソードが綴られる作品かと思ったら、物語のフォーカスは徐々に聞善自身へと移っていく。 同時に、謎の同居人 “小尹”にもフォーカスが当たる。この同居人について、何の説明もなく物語が展開し、その存在がいよいよ不自然に感じてきた頃合いで、実は聞善が書けずにいた脚本の主人公であると同時に、聞善自身であることがわかる。(この解釈は人それぞれだろう) “小尹”は言わば、書けなかった、書かなかったが故に燻っていた 聞善自身の苦しみや葛藤、諦めや希望、そんなもやもやの象徴とも捉えられる。 弔辞執筆の仕事を通じて様々な人生に触れることで、「普通であることは、特別なこと」と気づいた聞善は、主人公に新たな名前をつけて脚本を書き始める。 そのとき、 “小尹”は聞善の家にはもういなかった。もやもやが吹っ切れたかのように、聞善のもとを去ったように思えた。 「君は主人公になれる」という最後のフレーズが、この淡々とした会話劇のラストを引き締める。続けて流れるエンディングの曲がまた良かった。 中国語の響きがこんなに心地いいと思ったことは初めてだ。
コロナ禍の北京で弔辞を書くために取材を重ねる脚本家の聞善。故人の生前の姿も家族や同僚、友人それぞれの側から見るとブレがあったり、仕上がった後で弔辞についての異議を申し立てられたりと、彼と故人をめぐる人々との会話で進行していくが、そこから立ち上がる故人の姿が興味深く、淡々とした会話劇でも飽きることはない。「同居人」小尹との会話は自らの内面に降りていくようだと思ったら、なるほどという展開。物語を生むのは多くの見聞と人々との交流。死を思い、考え、見ることで人は生を得て、前に進める。普遍的なテーマで心に染みる良作だった。
こうした中国作品を見たのは初めてかもしれない。 弔辞の代書という仕事は今の日本では想像しにくい仕事だが、「死」という普遍的なテーマだけに心が入っていく映画だった。 1人の死にはそれだけの歴史があり、関わる人にとって多様な見方がある。亡くなったことで思い出の一つ一つの欠片をどう集めていくか。そこには現代の人間関係も絡み、「自分ならどんな弔辞を書いてもらえるだろうか」と考えさせられる作品だった。 ここまで「弔い」と「生き方」を考えさせられる中国作品に出会ったことはなかった。いまの日中間にはいろいろな問題が横たわるが、中国の日常の一面を知ることができる素敵な作品だった。こんな作品をもっと見たい。