もうひとつの『関心領域』
※本文にネタバレがあります ネタバレを読む
映画は、猛攻撃を受ける戦火の街(サン・マロ)でカメラを抱えた女性が爆撃の粉塵に塗れる映像から始まる。続いて1977年、老年のリーがジョシュ・オコーナー演じる若いジャーナリストのインタビューに、過去を振り返るかたちで語リ始められる。語られる最初は1938年のフランス、海辺のムージャン…。 『ヴォーグ』のモデルで、シュールレアリストたちのミューズで、マン・レイの作品の共作者で被写体でもあったリー・ミラー。その後リーは撮られる側から撮る側に転じ写真家となり、名声を得るも飽き足らず、何かに突き動かされるように第二次世界大戦の報道写真家としてヨーロッパ戦線に赴く。彼女を戦地への取材に駆り立てたものは何なのか? その報道写真家としての活動にフォーカスしたこの映画では、報道写真家となる前のリーの華麗な前歴は、語り始められる1938年部分の交友関係に示唆されるものの、主に描かれるのは、伴侶を得ながらも、その伴侶をロンドンに残し、戦地に向かうリーと彼女の眼=カメラが捉える戦争の様々な暴力、過酷な現実である。が、ポスターに使われているヒトラーの家の浴槽の写真などは、彼女がかつてはモデル(被写体)でもあったことや、一種の批評の営みであったシュールレアリスムの交友圏に彼女がかつて身を置いていたことを考慮しないと、理解しにくいかもしれない。 リーの優れているところは、パリが解放され人々が浮かれていても、戦争はまだ続いていると明確に認識していること、そして再会したバリの友人たちから聞いた、ユダヤ人以外にも多くの人たちが連れ去られ消えてしまったという事実を聞き流すことができないところだ(報道写真家なら当然なのかもしれないが)。ロンドンから迎えに来たローランドを振り切り、デイヴィッドと共に、リーは何ヶ月も800キロに渡る過酷な取材を続ける。そしてついに消えた大勢の人々の行き先まで辿り着くのだ。 報道写真家としてのリーの被写体となる対象への眼差しは、限りなく思いやりに満ちている。負傷した兵士、ドイツ軍への協力を責め立てられる女性、戦時暴力の被害者である少女…。リーは弱者たちに、傷ついた者たちに、心からの敬意と思いやりで接する。普段は辛辣な物言いをするリーの別の側面である優しさ、報道写真家としてのリーの素晴らしいところだ。 第二次世界大戦絡みの作品もナチスドイツ絡みの作品も少なからず観ているのだけれど、この映画のリーに同行しながら、戦争という暴力をリーと一緒に初めて目撃しているような、戦争の悲惨さやナチスドイツの想像を絶する犯罪を初めて目撃したような、リーと心を共にしているような感覚を味わった。が、実際にリーが体験したものは、一介の観客にすぎない者(しかもその事実を既に知識として知っている者)が味わった擬似的同行感覚とは比較にならないほど、深く衝撃的なものであっただろう。恐らく一生消えないトラウマになるほどに。 リーのスクープ写真は英国版『ヴォーグ』戦勝記念号には結局一枚も掲載されない。「あれほどの人たちが…あれほどの人たちが…」とデヴィッドが泣かずにいられないほどの、絶句するほど酷い眼にあった大勢の人々への戦争犯罪の証拠写真であるのに、「人々を不安にする」という理由で検閲で落とされてしまうのだ。リーが怒り、掲載不許可となった自分の写真を破りたくなるのは、至極もっともなことだと思う。一方には真実を求める人々、他方には真実を望まない人々、後者は真実の遮断隠蔽を、真実からの遮蔽を望む。つまりここにも映画『関心領域』と同じ問題、同じ壁が立ちはだかっているように思われる。 主演の久しぶりのケイト・ウィンスレットが素晴らしく(特に老年のリーの演技)、彼女の俳優としての力量を思い知らされる作品であっただけでなく、脇役たちの顔ぶれの贅沢さにも驚かずにはいられない。この作品に集結した製作側の思いが伝わってくるかのよう。 インタビューに答えるかたちで語られた物語と、カメラを引いていくようなそのインタビューの終わり方も秀逸。優れた脚本、演出だ。 個人的には、飛行機がばら撒く紙片がポール・エリュアールの詩「自由」だったのが印象深く(この「自由」は、パリ解放後のパリでリーがヌーシュと再会する場面でも皆が朗誦している)、ノエミ・メルラン演じるヌーシュ(=エリュアール夫人)の隣に、そうとは名指されずにポール・エリュアールも登場していたりする。 ちなみに、リーが語り始める1938年フランス、ムージャンのピクニック場面の、リー、ローランド、ヌーシュ&ポール夫妻、ソランジュ&ジャン(サーモンピンクのシャツ)夫妻以外の同席者、名前不明の2+1人は、カップルがマン・レイ(リーを茶化す白シャツに白っぽいハンチング帽の男)と当時の恋人アディ・フェドラン、黒のベレー帽かぶり緑のシャツ着ているのがパブロ・ピカソのようです。