菅原文太さんが28日に亡くなくなりました。およそ30年前、50歳を過ぎてからは、身寄りのない在日韓国・朝鮮人のために老人ホーム建設の資金集めの運動にも協力したほか、学校法人「自由の森学園」の理事長に就任するなど、教育・福祉活動にも積極的な方でした。韓国の孤児院も訪れ、子ども2人の里親にもなった。
(映画『神戸国際ギャング』オフショットより、高倉健さん、ガッツ石松さん、菅原文太さん。ガッツ石松さんは高倉健の「健」と菅原文太の「太」をもらい、息子を「健太」と名付けた )
菅原文太さんは、2012年に『おおかみこどもの雨と雪』で韮崎役の声優を務めたことを最後に俳優を引退。その大きな理由が、東日本大震災。「あの震災で何万人という方がお亡くなりになった今、映画を作るとかそういうことじゃない気がした」。そして、「こういう時代にどんな映画を作っても(被災地は)癒やされない」と山田洋次監督の『東京家族』を降板。
(菅原文太さんとヴァン・ヘイレン)
引退後は戦争反対、脱原発など社会にメッセージを発信しました。今回はその一部をご紹介します。
【今年11月1日、沖縄市長選での応援演説にて】
「政治の役割は二つあります。一つは国民を飢えさせないこと。安全な食べ物を食べさせること。もう一つは、これは最も大事です。絶対に戦争をしないこと」
「沖縄の風土も本土の風土も海も山も空気も風も、すべて国家のものではありません。そこに住んでいる人たちのものです。辺野古もしかり。勝手に他国へ売り飛ばさないでくれ。まあそうは言っても、アメリカにも良心厚い人はいます。中国にもいる。韓国にもいる。その良心ある人々は国が違え、同じ人間だ。皆、手を結び合おうよ。」
【今年6月12日、東京・日比谷で開かれた「戦争をさせない全国署名提出集会」にて】
「戦争というのは、いろいろ政治家含めて言っているけど、言ってみれば暴力です。暴力映画をしきりに撮ってきた私が言うのもなんだけど(苦笑)、あれは架空の話で、皆さんに楽しんでもらう以外の意図は全くありませんでした。
私は昭和8年生まれですから、戦争が始まったのは小学校2年生のとき。そして始まった次の年、親父が40過ぎで戦争に持って行かれました。帰ってきたのが、6年後の戦争が終わった昭和23年だったかな。男5人兄弟で親父の兄貴もそのちょっと前に持って行かれた。続いて親父。次の叔父は肺病だったんで戦争には行かずに済んだけれど、割と早く亡くなってしまった。親父の弟は、赤紙で戦地に向かってそれっきり帰ってきません。フィリピンから一通の手紙が届いたっきり、どこに転じていったのか、どこで死んだのか、餓死だったのか、弾に当たって死んだのか、それも不明です。未だに髪の毛一本戻ってこない。(親父の兄の)長男は戦地から帰ってきたけど、生涯マラリアに苦しめられて死にました。うちの親父も帰ってきて、その後の暮らしは言ってみれば、生涯を棒に振った、というようなことで終わってます。
戦争はよくないですね。戦争は絶対にやめなきゃダメです。もし(戦争に向けた動きが)始まったら、みなさん命をかけましょう!私は、もう80だから(命は)惜しくない。といってね、命をかけましょうと言ったって、一人で走っていってぶつかったって、あまり意味はない。そんなことより、皆さん一緒に戦争反対の気持ちを、今日そして明日、明後日で終わらずに、これから皆さん、子供も孫もおられるでしょう。皆さん一緒に戦い続けましょう」